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勇者の園新館建つ

生まれて三ヶ月目に入った四月十七日より、喜生は、0歳保育をしている、ひよこの家共同保育所に入った。
ひよこの家は、無認可の保育所で、戸越四丁目の路地の奥まったところにあり、木造の古い家屋を保育園としているのだ。
朝八時十五分から夕方五時半まで喜生はそこで保育された。
母ちゃんも、みんなの会の仕事でいそがしくたち働いた。
以前同様、バザーの出品願いの家庭訪問や老人の話し相手、事務所の掃除など……。
父さんは、毎日のように、勇者の園の建設用地を捜してあるいた。
その間に、銀行の融資の話・建設会社との話し合いなども続けていた。
いくつかの土地を紹介され、多くの不動産屋めぐりをし、また一方では一万枚の土地を求めるちらし広告を新聞折り込みにもしたりして、土地捜しに明け暮れた。
やっと八月の末、五十六坪の借地が見つかったが、そこには、二軒の家が建っていた。それが東中延一丁目の新館の土地だ。
荏原中延駅からも近い、商店街にも近い便利な所だ。
父さんは「欲しい」と思った。
二軒の家の一軒はすでに人は住んでおらず空家で、その家の権利は、すでに金融業者の手にあった。もう一軒の方は、九十のおじいさんと、六十近いその娘と二十歳ぐらいのその孫の中島家族三人が住んでおり、「古い家だから、どこかきれいな家に移りたい」という意志であった。
父さんは、その土地が欲しくてたまらないので、スローモーションの不動産の社長の尻を押しながら、交渉をかさね、売買価格を決め契約を交わし、その上、その中島さん達が引っ越さなくてはならないため、家捜しまでして、千葉・埼玉近辺まで出向いたりもした。
最初の契約値段を二度ばかり値上げされたりもしたが、それでも父さんはその土地が欲しかった。
ある日こんなことがあった。
父さんは、その人達が移り住むための家を捜しに千葉の松戸に行った。
駅前の建売業者の車で、売り出し中の建物をいくつか見せてもらっていたところ、その売り出し現場の前で、バッタリ、中島さん父娘にあった。
中島さんたちも、自分の移るための家を捜し歩いておられたのだ。
「広升さんありがとうございます。私どもの家のことまで心配してこんなところまで来て下さる、もう売ることに決めました。今日のうちにも、どの家かに決めます」
それは、劇的なシーンだった。
売る、売らない、売る、売らないと二転三転した話であったが、そのことがあって事実上売買の約束が成立した。
その時、父さんは思った。奇跡は起こる、しかし、その奇跡も努力に努力をつづけている内に万に一つのチャンスに出あうのだと。
心底欲しいと思ったその土地は、家の持主の中島さんに千三百万、もう一軒の高橋さんに七百万円。地主岡田さんへの名義書替料として中島・高橋分五百万。今までの紛争処理費百万円、売買仲介手数料八十三万、合計二千六百八十三万円で契約は成立した。
その間に会員の立入久美子さんの紹介で、建設会社も決まり、山元ダイワハウスの社長の保証で、土地代金分三千万円の融資も品川信用組合で決定した。
昭和五十一年十月になって建設工事がはじまった。

その間、喜生は、順調に育った。
その間に変わったことはといえば、一緒に住んでいた中田ハナおばあちゃんが亡くなったことだ。
中田ハナさんは、喜生が生まれ新潟から帰って来て、一ヶ月半、一緒に暮らしたことになる。
五月末に、脳血栓のため病院に入院した。そして、九月二十七日亡くなられた。
父さんと母ちゃんは二日に一回見舞いに行った。時々、喜生を連れてゆくと口のきけなくなったハナおばあちゃんは、満足そうに喜生の手をにぎっていた。

もう一つ、喜生が生まれてすぐ、高岸おじさん(当時二十一歳)が会の職員になった。高岸さんは、はり・灸・マッサージの資格を持っている人だった。
それで会の職員は、父さん、川村さん、母ちゃん、高岸さんの四人になったのだ。
柏崎のおばあちゃんや、広島のおばあちゃん、また、みんなの会の会員の人や、みんなから借りたお金と勇者の園二号館を売ったお金を品川信用組合に定期預金をして、新館建設の土地代金分の三千万円を借りた。
そして建設代金は別に二千三百万円で、そのお金は、入園する、おとしよりから一人平均四百万円の終身入園金をいただいて返済することにした。
新しい家が建つのは楽しいものだ。
戸越の三丁目(ハナさんと住んでた所)から乳母車にきみを乗せて、よく現場に通ったものだよ。
喜生が満一歳になった五十二年二月十四日、勇者の園新館は完成した。
そのときも、新聞・テレビで報道してくれた。
四月に飯塚トヨさん七十四歳、五月に瀬島ヤエさん七十八歳、井口シゲさん八十四歳、七月に川嶋ミツさん六十一歳とつぎつぎに入園のおとしよりが決まり、建設会社への借金はほとんど返済した。
そして父さんたち三人も新館に越して来た。空家になった一号館は品川信用組合の返済のために売ろうかと思ったが、その後も入国希望の人がありそうなので改良して使用することにした。
一号館も結局全部建て替えることになり、二百九十万円かけたが、そこも、大友つるさん、平野フミさんが入園することになったのだ。

喜生は、三月ひよこの家を卒園して、四月から西大井六丁目の区立伊藤保育園に入国することが出来た。
丁度その頃、母ちゃんは妊娠した。勇者の園の新館の完成と重なり、完成祝賀会、一号館から新館への引っ越しなど忙しかった。
妊娠しているのを知りながら、喜生をおんぶして自転車に乗って、父さんと一緒に完成祝賀会の招待状を配ってまわったりして自転車に乗りまわしたりもした。
母ちゃんは妊娠してもつわりがない、いつもと同じ平気な顔している。だからついつい無理をする。
それが流産になった。
四月に入って、出血しているといったので大事をとっていたのだが、父さんたちが、飯塚トヨさんの入園で新潟まで引っ越しに行っているとき、流産した、と知らされた。
二、三日ショボンとしてた母ちゃんだが、ゆっくり休んでいる間もなく働いていた。

そして、七月十日頃また産婦人科のお医者さんに、「できてますよ。よくできますね」といわれたんだそうな。
それが健生だ。
広升一家は、丈夫で長持ちの元気な母ちゃんでもっているのかも知れないな。

「またできた」という話をきいただれかが、
「お父さんがおとしだから、早くつくりたいと思ってるんでしょう」といったとかいわないとか。
父さんは、自分のとしを考えて早く打止めにしようなどと考えていないんだ。
別に計画などなく、なりゆきにまかせていると、ポン、ポンできるという感じなのだ。
結局のところ、母ちゃんが言うほど、父さんも弱くないんだ。両方健康なんだな。

そんな訳で四月から七月の間に、勇者の園は新館の一室が決まらないだけで、あとは全室在園者が決まり、老人は十人、在園青年は五人(喜生もその一人)職員六人(アルバイト一人)ということになった。

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