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政治家になりたいのです

父さんは二十六歳まで、証券会社に勤めていた。会社を退める日、直属の部長は、
「広升君、会社を退めて明日から何をするのかね」と質問された。
「部長、お世話になりました。私は政治家になるために退社します。部長、私に政治資金第一号のカンパ下さい」と手を出した。
「ボクから、金をまきあげてゆく社員は君がはじめてだな……」木田部長は、笑いながら、サイフから千円を出して下さった。父さんは、
「ありがとうございます。かならず立派な政治家になりますから」
その翌日から、父さんは、自由民主党の中曾根康弘代議士のところに日参した。選挙区の群馬県高崎までも行った。もちろん議員会館にも行った。
議員会館で、大柄な秘書の人が会ってくれた。
「広升さん、広島の出身なら広島に帰って農民運動でもして、支持者をつくってから政治にでて来なさい。大物の秘書にでもなって、という甘い考えでは政治家にはなれませんよ」
そのとき、来客を送って出て来た、中曾根先生に、その秘書氏、
「……という訳です」と伝言。
「そうですか、キミも若いんだから頑張りなさい」と中曾根先生。父さんは直立不動で大物政治家、中曾根康弘の話を聞いた。二十秒間の出来事だった。
『広島に帰って農業をするのも、たしかに大衆運動かもしれない。しかし、広島の田畑もすくないし、体力もない。この東京の中で大衆のためになる運動をしよう。だが果して、それは何か……』
父さんはそれがわからないまま、献血運動をしたり「みんなの会」をつくった。それでも、具体的に何をしてよいのかわからなかった。
バスハイキングや、講演会など青年を中心にしたサークル活動を細々と続けていた。
会社を退めている父さんは、経済的基盤がなく常に不安定な状態だった。

今は若くて何でもできるから生活が不安定でもいい。しかしもし年老いても、不安定だったら……そう思うと、老後の不安を消しておかなければならない、と思った。
どんなに人生の途中が幸福であっても、末路があわれでは、人生の勝利者になれない。
そこで父さんは、特別養護老人ホーム(浜松市聖隷福祉事業団)に行って働いてみたんだ。そこで病弱な老人の姿をみて、国の老人対策に安心をしたのだ。政府行政の福祉はよくなっていると思った。
老後は安心だ。あまりクヨクヨ考えないで一生懸命働き、税金を納め、社会のためになればよい。そして、本当に困ったら国の福祉政策の恩恵(生活保護)を受けて感謝してくらせばいいんだ。という覚悟ができたのだ。
よく人から、勇者の園を建てようと思った動機は何ですかと質問されるが、勇者の園を建てなくても、他の事業をやってもよかったのだと思う。
製造会社でも、キャバレーでも。しかし父さんにはそのとっかかりがなかった。
どうしても、働いた経験のある老人ホームのことが口からでて来る。
そしてそれは、大衆にとって必要なことであるから、大衆運動のもとに運動ができると思った。
「よーし、みんなの善意をあつめたホームを、しかも、青年と老人が一緒に住める、青老ホーム勇者の園を建てよう」と決めたのだ。
募金活動をはじめたのが三十歳の時だ。
自分の運動が具体的に決った。しかし、その運動が、実現するという確信はなかった。
出口のないくらやみのトンネルの中に入り、手さぐりで進んでいるような気分だった。

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