musuko36

二月十四日

土曜日だ。夕方五時頃、母ちゃんから電話が来た。
「破水したので病院に行きます」
「あっそう、気をつけて」
“ガンバッテ”とも“シッカリナ”ともいわなかった。そう言えば母ちゃんは喜ぶだろうなと思ったが言えなかった。電話のそばに人がいたから照れ臭かったのだ。それは簡単な二言三言のみじかい会話で電話を切った。
父さんはやっぱりうれしくて六時十七分の列車に乗った。
車中で九州の鹿児島で生まれた五つ児は、生後一週間になるが保育器の中で順調に育っているという新聞記事を読んだ。この記事は成長の記念アルバムに貼るのに取っておこう、と思ったりもした。
母ちゃんは、妊娠して出産までズーット元気だった。つわりの時も食欲旺盛モリモリ食べていた。
妊娠九ヶ月、大きなお腹をしていても平気で一日中、バザーの出品依頼の家庭訪問をしていた。元気な母ちゃんだから、そのことでは何の心配もしなかった。
柏崎にいる母ちゃんとお腹の中のきみのことはすっかりお医者まかせ、おばあちゃんまかせだった。
夜十一時、柏崎駅前の山田医院に着いた。
ヨブ子おばあちゃんが玄関に迎えにでてくれた。
「おかあさん、静香ですか、喜郎ですか」
「喜郎ちゃんです。よかったですね」
おばあちゃんはそう言って母ちゃんの病室の二階に連れて行ってくれた。
「どうだい」
父さんはいった。
「ウフフフフ」
母ちゃんは口を手でおさえるしぐさをして笑った。
“よく頑張ったね、ありがとう。ご苦労さん”といってあげなさいよ、と誰かにいわれていたが、照れ臭くて口にすることができなかった。
そのすぐあと、一メートル四方のガラス窓ごしにきみとはじめての“ご対面”をした。
横からヨブ子おばあちゃんが、
「勲さんにソックリですよ、目の細いところなんか」とうれしそうに笑って話していた。
念のためつけ加えておくけどね。きみが生まれるまでは母ちゃんとおばあちゃん達との間では「目の細いところは勲さんに似なければいいがね」と内緒話をしていたんだよ。
五時半頃入院して、七時四十五分には生まれたのだ。それはそれは安産だったのだよ。だから父さんのすることなどなにもないんだ。オムツも、きものもベビーダンスもみんなおばあちゃん達が用意してくれているし、父さんのすることは、勇者の園四号館のお金あつめぐらいのものだよ。
その夜、病院の看護婦さんが喜郎の写真を写してくれた。そして生まれたばかりのきみの写真を静江おばあちゃんに見せると、
「ヒャー、元気のよさそうな、大きなオチンチンをした、かわいい子ですがね」
この世の中に出て来たばかりで、大きな口を開けて泣いている。臍の緒をつけたままのきみの裸の写真は、どうみてもかわいいとはいいがたい写真であるが、おばあちゃんには宝のように大切な、かわいい写真であったのだ。
おばあちゃんにとって、その写真で、ただ一つ気に入らないことがあった。それは、写真の横に、広升美津子ベビーと書いてある広升が気に入らなかったらしい。
「この写真は、東京に持って行きなせえ」とスンナリ渡してくれた。
そのあとで、写真のところだけ焼き増しして欲しいと、おばあちゃんは、何度も父さんに請求をしたんだ。
窓ごしにきみを見たときの父さんの感想か。そうだな、しげしげと見たな。そして“これが俺の子か”と思いながら、生まれたすぐの赤チャンは、クシャクシャな猿のような顔だ、というけど。父さんがはじめてきみを見たのは四時間後だからか、クシヤクシャではなかったな——。
頭の髪は黒々としていたな。特別きみの髪は黒かったな。目、そうだな、細かったかな。鼻は、ドデンと、そうさな、母ちゃんに似てたんじゃないかな。口は、ちいさく、かわいかったよ。赤チャンと言うだけあって、本当に真赤という感じだった。
うれしい、感情はあったけど、きみの顔を見たとき、
「よーし俺もおやじだ。今からこの子のために頑張らなければ」などと思わなかったな——。
わりと、淡々とした、うれしさだったな。自慢じゃないけど父さんは、独身の頃から、頑張っていたからね。母ちゃんと結婚したときもきみが生まれたときも「今から頑張らなくっちゃ」などと思う気持はなかったな——。
ただ、言えることは、何もかも、母ちゃんと結婚していて、よかった、ということだ。
だから、生まれた子どもの育児も、教育も母ちゃんにまかせておけば大丈夫、という安心感があったな。
だから父さんは、仕事さえ一生懸命にやればいい。つまり、当面の目標である勇者の園四号館を建設することに邁進すればいいんだ、と思っていたんだよ。
ということはつまり、おばあちゃんから、お金を借りるということが具体的な行動目標だったのだ。
子どもや孫のことではなんといっても母親やおばあちゃん、つまり女性が主役のようで、健二郎おじいちゃんのことが表面に出ない、おじいちゃんは毎日、会社から帰っては、チョコッときみのホッペをおして、テレビを見ながらお酒をチビチビやっていたそうだ。おじいちゃんも初孫のきみがかわいくても、おばあちゃんたちのように、にぎやかにはさわげなかったんだよ。テレ臭さかったんだよ。おじいちゃんも……。

↑上に戻る