母ちゃんとの出逢い
母ちゃんとのはじめての出逢いは、昭和四十六年夏、母ちゃんが父さんにくれたのだ。
「私は、短大福祉学科の十九歳の学生です。みんなの会が、老人問題と取り組んでいることを知りました。会のことと、老人問題のことをおしえて下さい」とはがきに書いであった。
一枚のはがきに書いてあった。
そのころ母ちゃんは、淑徳短大の二年生で、学芸大学を卒業して研究室に残り助手をしていた、正樹おじさんと二人で小金井市のアパートに住んでいるということだった。
その頃、父さんは、下目黒の小川ビルの十階に住んでいた。
家賃は月四万円で四人の独身の男ばかりが一緒に住んでいた。
小さな会社で外交をしている岡村主計さん、出版会社を退めてアルバイトをしている坂元和夫さん、洋服仕立職人の平林弘司さん、そして父さんの四人で家賃は一人一万円づつ出しあっていた。
時には、食事を共同でしたり、彼女が遊びに来ると、他の三人は気をきかせてみんなそれぞれに外にでて喫茶店で時間をつぶしたり、それは奇妙な、その中にも和の保たれた共同生活だった。
父さんは、みんなの会の会長を仕事としていたから毎日、その部屋にいた。
その部屋は六畳・四畳半・台所・バストイレ付きのマンションだった。
平林さんも、洋服の仕立をその部屋の一隅でしていた。
父さんは、母ちゃんからもらったはがきを見ながら、「会の問い合せのはがきだね」と平林さんに見せた。
あまり上手でもないはがきの文字を見て、特別感激をすることもなかった。
ごくありふれた、出逢いだった。
父さんは、会の印刷物と簡単な手紙をそえて母ちゃんに送った。
それから、何日かして、母ちゃんと、直接顔を合わしたのだが、それがいつだったのか何処であったか、果して何人の人とあったのか、覚えていない。
つまり、父さんが母ちゃんに一目惚れでないことだけは確かだ。
そこで母ちゃんの記憶を記してもらおう。
おとしよりのために何かを
短大二年生で、母ちゃんは、何でもやってみたい年頃だったのね。学部が福祉学科でもあるし、お年寄りのために何かできることがあったらしてみたいと思って、老人問題と取り組んでいるグループを捜していたの。
学友で日本青年奉仕協会という団体に出入りしている武沢さんという人から、“みんなの会”を教えてもらって、はがきを出したの。
その時もう父さんは『二十八歳まだ独身です』という面白いタイトルの本を出版していたの、会員も大勢いるということだし、さぞ立派な方だろうと想像しながら、その本を読んだわ、おもしろかった。
みんなの会で主催した、青年交歓会に出席し、その時はじめて父さんに会ったの。印象は、目が細くて色が白い人だなーと思ったわ。
父さんの話は、わかりやすくて楽しい内容だった。
もっと大柄ですごーい人かと想像していたのだけど、とても優しそうにみえたのよ。
交歓会会場の割には少人数で母ちゃんは、途中で帰ったの。
もっと楽しければ最後までいただろうと思うの。
でも、会の活発な運動がよくわかったので小金井から一時間かけて行ってよかったと思ったわ。
そういうわけで、母さんも決して父さんに一目惚れではなかったのよ。
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