musuko34

男のゆめ女のゆめ

結婚式もあとまわし、披露宴もあとまわし、新婚旅行はなし。親の許しだけを得てそのほかのことは全部あとまわしにして、二人の結婚生活ははじまった。
昭和五十年七月十日だ。
その日から、母ちゃんは、三鷹のアパートから、父さんの住んでいる勇者の園一号館に住むようになった。
そこでは、父さんと、七十七歳の中田ハナさんとの三人の生活だった。
朝と夕食は三人でして、母ちゃんは、三鷹の保育園まで通勤した。
その時すでに妊娠五ヶ月だった。だんだん大きくなるお腹をかかえて、母ちゃんは三鷹まで、それでも楽しげによく働いた。
時々、夫婦げんかをするときがあったが、その原因は、中田ハナさんのことが多かった。
「どんな小さなアパートでもいい二人だけでくらしたい」と言うことも何度かあった。
母ちゃんは、保育の仕事は好きだから、三十歳になるまでは退めたくない、と言い続けた。
しかし、父さんは、みんなの会でも人手が要るのだから、保育園を退めて、みんなの会の職員になって働いてくれと、説得した。
「保育園の仕事がそんなに好きなら、将来みんなの会で、付属保育園を開設してもいいではないか」とか、いろいろうまいことを言って、結局妊娠八ヶ月目の五十年十二月末で正式に保育園を退職した。
明けて、一月から、母ちゃんは、みんなの会職員として働きはじめた。
職員は、父さんと川村洋史さんと母ちゃんの三人になった。
妊娠九ヶ月目でお腹も大きくなっていたが、その時から、家の中で事務的な仕事をするより、外にでて人と接する仕事の方がいいと言って、バザーの出品依頼の家庭訪問などしてくれた。
陽気で、結構楽しげで、よく働いた。
一月三十日、その日も、かかりつけの、龍宮産婦人科に行った。すると、
「もう開いているから、いつ産まれるかわからない、新潟にゆく汽車の中で生まれるかも知れないから、上野駅で痛みがあったら乗ってはいけない」とまで言われた。
母ちゃんはあわてて出産の用意をし、父さんもついて柏崎に行った。
車中何ごともなく、柏崎のおばあちゃんの家についた。
その夜も母ちゃんはいつもと同じように元気だった。床に入ると、
「しばらく別れて暮さなければいけないのね、さみしいわ……」とかなんとかいいながらすり寄って来た。
「生まれて来る子どもの頭、がへこんでたらこまるぞ……」といいながら、深くて強くて長い愛を交わした。
そんな訳できみがお腹にいる間も、父さんたち夫婦は、新婚当時とまったく同じように生活した。いやそれ以上に……。
「女の喜びを知ったわ」とか「妊娠の心配がなくて楽だわ」とか、父さんよりも母ちゃんの方が、前むきだった。
女は弱し、されど母は強しかな……?!

いつ産まれるかもしれない母ちゃんを柏崎において父さんは東京に帰って来た。
母ちゃんは、出産の準備をすべて完了してその時をまつばかりだ。
父さんと別れても、母ちゃんにはゆめがある。どんな子どもが生まれるか、育児はああしよう、こう育てよう、と。
それは女性にとって最も大きいゆめかも知れない。
ピクピク、動くお腹をさすり、一日一日と変化する体調に出あいながら、そのゆめを実感として味わっていったと思う。
その点、男は違う。痛さも、うれしさも、不安も、実感としては味わえない。全部間接的である。
特に父さんの場合、母ちゃんが元気で、つわりもないし、妊娠中、ズーット元気いっぱいだったから、母ちゃんをいたわり苦労を分かち合ったいうこともなかった。
母ちゃんが、柏崎の実家でゆめをはぐくませている間、父さんは東京で一人インスタントラーメンをすすりながら思った。
女のゆめと男のゆめはちがう、いくら夫婦でも一つのものを同じように味わうことはできないものだ、と思ったのだ。
幸いなことに母ちゃんは元気だ。母ちゃんのことを心配をするよりも、父さんは、男にしかできないゆめをはぐくもう。
そして、母ちゃんのゆめと、父さんのゆめを、車の両輪のようにまわすことができたら縄のようにうまく、あむことができたら、楽しい家庭ができる。
その男のゆめとは、存分に働く、社会の中でいかに働くかにつきると思う。
それゆえに、このあたりから、きみの成長と、勇者の園の実現の話が、からみあってでて来る。

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