musuko47

奇蹟

父さんの「九億八千五百万円の青老ホーム」のゆめは、具体的な計画があってのゆめではなかった。ただ、なんとなく、十億といえばあまりにも、ウソのようだし、三千万、四千万の建物というのでは、小さすぎるし、そこでスーパーの特売で百円の物を九十八円と値段をつけて売るように、なんとなくもっともらしい数字九億八千五百万円としたまでだ。
だから、カンパしてくれる人も、それが実現すると信じて協力してくれた人はないと思う。
みんな面白半分に、落語を聴きに行って入場料を払うようなつもりで協力してくれた人の方が多いと思う。
ただ、それを受けとった父さんは、はじめはちゃかしの気分もあったと思うのだが、十万、五十万、百万とカンパがあつまって来ると、冗談では済まされぬ責任が湧いて来た。
実現のために真剣にならざるを得なかった。しかし、百万、二百万円で、勇者の園ができる程世の中は甘くないのであせった。孤独だった。
三十一、三十二歳と時は待ってくれない。その場から逃げ出すこともできない。ただ進むしかない。なにか糸口はないか、何か光は見い出せないか、暗やみの中の手さぐりの状態でいるとき、「品川区内の一人住いの老人の実際の生活はいかなるものか、調べてみよう」そう思って、区内の独居老人の名簿を社会福祉協議会より借りて、その一軒一軒を訪問してあるいた。一人住い老人は約八百軒あった。
その訪問活動をはじめて、四ヶ月目、川上ヒデさんという老人を訪ねると、「すぐ先の角を曲った家の中田ハナさんを訪ねてみてくれ、気の毒な人だから」と言われた。それが中田ハナさんとの出会いだ。
ハナさんは、「私の面倒見てくれるのなら、この家をあんたに売ってもよい」といった。父さんの手元には募金したお金が二百万円あった。その時、父さんは思った、奇蹟というのはこのことだ。たった二百万で、ハナさんの土地を譲り受けられる(売買価格は四百万円だが、不足分の二百万円はローンで返済するとの約束ができ成立)そしてハナさんのお世話もできる。勇者の園の第一歩も踏み出せる。
一点に向って努力をしていると奇蹟は生まれる。努力を重ねているときにこそ、そのチャンスを自分の手でっかむことができるのだ。父さんはそう感じた。
それから二週間後、中田ハナさんのメイにあたる人が立会人になって契約を済まし、ハナさんの二階に住むようになった。
それが勇者の園一号館である。
昭和四十八年四月二十一日、父さんのゆめだった勇者の園一号館が生まれた、忘れられない日である。

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