何のために生まれて、何をしていきるのか!?それが問題だ
昨日のアコの話にタケが補足しました。
タケがアコに繰り返し手を変え品を変え、言っているのが 自分の持っている価値を他者に時間に変換して提供するのは人生の無駄遣いだという事。
タケは個人事業者。だけど、独立前はパン屋、税理士試験受験予備校の講師、会計事務所の勤務税理士と10年のサラリーマン生活。 サラリーマン生活ってこの構図。
自分が所属する看板Aにお客様が来て、自分はそこの1スタッフして看板Aに求める価値を提供する。
でその価値を提供した相手からは、直接に価値をいただくわけではない。
毎月25日に、看板を掲げる組織Aから決まった額の価値(この場合はお金)が振り込まれる。
自分はなんの為に生きているんだろう、誰の為に生きているんだろうって、サラリーマン時代にいつも悶々としてた。
この悶々とした悩みはいつも晴れることはなく、転職して新たな仕事についてこの悩みを紛らわすんだな。 でも2,3年もすると紛らわしているだけだから、やっぱりまた悩みだす。
紛らわしのモチベーションタイマーは、3年効かないってことだ。これ10年くらいサラリーマン生活を転々として悟ったこと。
タケは個人事業主として仕事をはじめて4年目。自分で事業をすると自分の看板に直接お金を払ってくれるお客様がいてくれる。
これは、本当にありがたいことで、非常に構図がしっかりしている。って言うか非常にシンプル
要は、自分に価値を認めてくれるお客様に直接価値を提供すればいいんでしょという。 独立して、悟ったのはこのシンプルな流れになれば、どんな仕事でも多分楽しいし充実している。
自分が提供した価値に、共感や認めてくれる人がいてそれで生活が成り立つ。
それでいいじゃない。それ以外に生きる意味はありますか?それが出来れば、OKでしょうって話。
じゃぁ、アコはそこが出来てますか?ということをいつも説いてて、頼まれ仕事ばかりで時間を使って、自分の価値を認めてくれるお客様に直接届ける何かをしていますか?と。。。 大きなプロジェクトの、担当リーダーが褒めてくれるので価値を提供している認めてもらって嬉しいのか!? 本当に嬉しいかそれ!?自分に嘘ついて嬉しいって言い聞かせてるだけなんちゃうの?と、事あるごとに繰り返し繰り返し突っ込むわけです。 ちなみに、アコも個人事業主で個人事業主期間は、タケよりも長い。
もう10年以上。 自分が独立して、仕事やプライベートでも個人事業主の方と接する事がとても多くなって感じるのは、個人事業主とはいうけれど、さっきの価値提供の関係がサラリーマン時代と変わっていない人がとっても多いなって事。
具体的には個人事業者だけど、もともと所属していた組織から独立して前の組織の仕事の一部を切り出して請けおっているだけっていうケース。
これ、組織にとっては今までよりは、外注でコストが上げたとしてもプロジェクトが不要になればいつでも切れるし、社会保険料などは要らないし都合よし。
個人事業者のほうは、一見手取りのお金が増えるけど、価値提供の仕組みは変わっていないから、この組織に依存する。 だから、サラリーマン時代と何も変わっていない。これで、苦しんでいる個人事業者が沢山いる。個人事業者ってもっと自由にできると思ったけどサラリーマン時代と変わってない。
むしろ、24時間仕事に追われる感じで辛いです。みたいなうちのお客さんもどれだけいるんだろう。。。 それじゃあかんよね。自分の価値を直接提供する仕組みに構造改革しなければ。でも構造改革よりも先にやらなければ、いけないのは『意識改革』だと。
当たり前を疑おう。自分の今の常識を疑おう。自分でだした答えも常に変わる。変わっていいじゃんって。
ところで価値ってなんだっけ・・・・
価値を提供するのは直接がいい。
価値を認めてくれる人に直接。そのうえで、相手も価値をくれる。 でその価値ってなんだっけ?一番わかりやすいのは『お金』だ。
Aは1000万円を稼ぐやつだ。Bは300万円しか稼がない。
この場合どちらが価値を生んでいるかといえば、A。とっても♪とっても♫とっても♪とっても♬とっても♪とっても♬分りやすい ※広末涼子のテンションで
そうすると、お金を生まないやつは価値が無いのか?無価値なのかと考えると、コレ芝ファミリーで今一番最上位に来る、価値がいる。
それは、彼。 息子の江
こやつは、今保育園から帰ってくるなり、NHKの子供番組『いないいないばぁ』のワンワンとゆきちゃんに夢中である。
言葉もやっと、片言の日本語らしい事を発するのみ。 もちろん『円(イェン)』を生むことは決してない。
だが彼は、家族の中で不動の【価値ヤロー】として君臨している。 毎年、8月のお盆の時期には、アコの実家宮城の田舎に里帰りをした。
タケも一緒に帰って、部屋の一室を仕事場にしてサテライトオフィスにしてるんだけど、今までの江が生まれる前までは帰省する度に車で2時間くらいの温泉などに、行くのが半ばお決まりのイベントだった。
でも今年は、何もなし。歩くようになった息子を連れて帰って宮城に実家で時間を過ごすだけ。
そこで感じたのは圧倒的な【孫パワー】(笑)
あーそーかと。。。子供がいない時は、みんななんとなく実家にずっといても場が持たない。
だから場を持たせるために、場所変えたりうまいもん食べ行ったりすんだよなーと。 江がいたら、じーじばーば(アコの両親)も自分たちも、それでだけでなんか楽しい。楽しいというのは日本語として違うかなぁ。場が持つの方が正しいのかな。。。。時々全然泣き止まない時なんかはひっぱたきたくなる時も含めて、江がいるだけでなんだか説得力がある。
これ例えば、江がもし生まれていなくて自分が年収1億円稼げるようになったとして、アコの両親にお金ありますから、今年はアコと4人で海外旅行に連れて行きます。
もちろんお金は自分がもちますので!
って言うのと、今年の夏の何気ない、江をみんなで囲んでた日々のどっちに価値があったのかというと、多分後者なんだよなぁと。
なんでこんな事を考えていたのかというと、イチローとチチローが絶縁していという記事をネットで読んだから。
話の詳細は【イチロー チチロー 確執】とかで検索してもらえばいくら出るのでそちらを参照してもらうとして、話の概要だけざっくり説明すると イチローとチチローは、昔は仲がよかった。でも、日本で最多安打記録など数多くの記録をうちたてて日本ではやることがなくなってきた時期に、8つ年上の弓子さんと結婚したと。
チチローは結婚に猛反対した。なぜなら、年上の弓子夫人では子供を生むのは厳しいのではないかと思ったからだと。 大リーグを目指す時も反対したと。それ以来、イチローとチチローは仲が悪いと。概要はざっくりこんな感じ。 この話とは別の記事で、イチローが大リーグ3,000本安打を達成した時にまたチチローの記事が出てたんですね。
そこで書いてあったはチチローがイチローの3000本安打を知ったのはトイレの中だったという話。
自分が感じたのは、チチローのイチローへの些細な抵抗っていうかなんというか… だって、実際にトイレのなかで大記録を知ろうが、そんな話を記者に伝えなきゃ記事にならないですもんね。 おもいっきりテレビの前で固唾を呑んで見守ってましたぁ!!じゃなんかかっちょ悪い。
『俺(チチロー)もう息子のことにそんな興味ないっすけどぉぉ』をPRしたいっていうかなんというかを感じてしまいました。
ここまで、話すると『なんだかなぁチチローいい年して、懐ちっちぇなぁ。あの不世出のすでに生きた伝説イチローのお父さんでしょ!』なんて思っちゃう。少なくても自分が、20代。
いや、江が生まれてくるまでの自分だったら。 でも、今はほんのちょっとかもしれないけど、チチローの気持ちがわかる気がしている。
自分がもしもチチローだったらこう思うってのが少しだけ想像出来る。 自分がチチローならの心のうちに分け入ってみよう。 『偉大な息子さんをお育てになって素晴らしいですね〜なんて、もう、数えきれないくらい道行く人に言われたよ。それはすごく嬉しい事だ。 でもさぁ、
俺は、イチローが20代で日本の安打記録作ったくらいでもう十分すごすぎる。大満足なんだよな。お金も沢山預金通帳に溜まってるさで でもそれよりもさぁ、孫がみてーよ!!!!預金通帳の残高が半分いや10分の1、いや生活出来るレベルくらい残して全部なくなってもいいから、孫とキャッチボールがしてーんだー!』じゃないかなぁ。あくまでも自分の個人的な推察でしかないけれど。
最近は【価値観の多様性】とよく言われます。 夫婦が子供を生まないという選択をする生き方もあるし、LGBTでの同姓のパートナーと生きていくっていうのもあります。
だから、【価値】とはなんぞやって言うと、人によって違う。としか言いようが無い。
そうすると、ざっくりだけ定義すると【客観的な価値】【主観的な価値】ってものがあって 【客観的な価値】の代表は集約していけば【お金】でしょう。
そのお金を得るために、客観的な価値を高めるために、みんな死にものぐるいで頑張っている。
客観的な価値を高めるためにはまず、客観的に学力が高いと言われる大学に進学し、客観的に良い会社、安定している会社といわれているところに就職をする。そして客観的な価値としてお金をもらう。
でもそれが、当たり前すぎて、【主観的な価値】にはあまり目を向けようとしない。 これ、勘違いしてほしくないのは、主観的な価値だけでいいじゃん!ということではない。 自分が正しい、自分がやりたいことだけやっていればそれで幸せだ!なんて言っている奴は自分は一番キライな部類のやつ。自分は絶対友達にならないタイプ。
話が脱線しますがね パン屋時代に、職人仲間がよく言っていた話。
こだわったパン、例えば天然酵母を使ったパンとか、ライ麦を使ったドイツパンとかの店に就職して、異口同音にいうのは。
このパンは自分がこだわって作ったんだ。だけど、この美味しさがわかるお客はあまりいない。 でも、それでいいのだ、わかる奴だけがわかってくれればいいんだ。と
一見言っていることはカッコいいんだけど、そんな奴に限って、給料が少ないと愚痴をいう。 そらそうだわ。自己満足だもんなぁぁっておもってた。 自分が職人を3年してて周りにいたのはこういう類の人ばかりだった。味覚なんて人それぞれだからっていう主観的な価値を言い訳にして、例えばパンのコンクールなど客観的に評価がくだされる勝負はしない。
ようは、客観的評価の中に自分の身を置いて、評価され敗北するのが怖いからそもそも勝負をしない。 確かに、バッターボックスにすら入らないなら、負けないもんね。
そんな感じが嫌で、一回【客観的な価値】で評価される、資格試験勉強してみるか!?どうせ勝負するなら 客観的に難しいと言われている試験を突破しないと、誰も評価なんてしてくれんわなって思って税理士試験始めたわけです。 脱線から帰還。 そんなわけで、結局行き着いた今の結論は、客観的な価値は大事だ。
でもそれよりも【主観の価値】を大事にしたい。
アコが大事だ。息子が大事だ。親などの家族が大事だ。四字熟語を好きだ。表現者でありたい。もっと会計税務をわかりやすく伝えたい。
それにはどうすればいいのか・・・・ という価値を大切にするためには、 【客観的な価値】で一定の成果を出す必要がある。 客観的に価値を認めてくれる不特定多数の方から価値(この場合はお金)をもらう必要がある。 そこのバランス感を大事にしないと、どっちがどっちだかわかんなくなるからなぁ。 客観的な価値にしか自分の価値観がないのは、やっぱし辛い。 で、そのバランスは、一人ひとりの単体で考えるよりも、家族のユニットで考えたほうがいいということ。
アコタケは、江を囲みながら、コレ芝ファミリーでそんな価値観禅問答を日々繰り返しているであります。
おしまい
タグ: 1歳8ヶ月 ↑上に戻る