「相談力」を支える自己肯定感と人への信頼

「ガスの元栓」を相談することさえ苦手だった独身時代

アスファルトの照り返しが強い7月。品川の柘榴坂を3.11ぶりにのぼる。震災があったこの日、私は税務署に申告書を届けにいき、書類が足りなかったため一時帰宅した。玄関のドアを閉めた直後に、地震が襲った。北品川のマンションは大きくしなったようだ。仕事先でもらった会社案内や分厚さだけで所有欲を満たすような本たちは、私のほうに倒れた。それから4年、孤独で震災の恐怖を味わった日のことを思い出すが、情けないことにその記憶はうっすらとぼやけはじめている。ただ、いつもこの辺りを通ると「ガス栓」のことを思い出す。当時は、隣の部屋の人に挨拶することも、ガスが止まっても「どこに元栓があるのですか」とすら聞くことができなかった。「自己解決しなければならない」。そんな、誰にも評価されない責任感に首を閉められているようで、息苦しさを感じていた。

「相談」することが、とかく苦手だった。

人に時間をとってもらうことが申し訳ないのか。つまらない質問で相手をがっかりさせてしまうのか。相手から大した回答が得られないと思ったのか。説明するのが面倒なのか。理由はよくわからないが、もやもやしても自分で堂々巡りをつづけていた。そして、だいたいのことは、解決できずに何年も抱えたままにして、忘れ去っていった。そうして、消化できないことで自分を責めたり……。そんなことを繰り返した。

「中華が食べたい」から高まる自己肯定感

そんな経緯があったが、結婚してよく相談できるようになった。これはなぜか……。

まずは、少しずつ「自己肯定感」が高まっていったことなんだろうと思う。結婚した当時は、食べるものも住まいもタケちゃんに判断を任せた。果ては結婚式の流れまで! 「ランチはなんでもいいよ」「タケちゃんがいいほうで」……そんな私を見かねてか、タケちゃんはひとつの提案をした。

「食べるものは、アコが選ぶこと」

以来、ランチのお店や夕飯は、私が食べたいものを選んだ。自分がそれまで、相手の食べたいものにあわせていたことに、改めて驚いた。「自分はお肉が食べたいけど、相手が軽いものを食べたがっていたらどうしよう」「あまり気乗りしないのにお金を使わせては申し訳ない」とか……。それで、ランチの場所を選ぶという、それだけのことなのに、最初はすごくしんどかった。

「中華を食べたい」

それから「決める」ということを繰り返した。自分ひとりなら、勝手に動いて勝手にやめられるけど、誰かを巻き込むのはとっても疲れる。あれやこれやと考えてしまうからだ。ただ、この「トレーニング」が、だんだんと「自分で選んで決めた」という肯定感につながっていった。

「いいよ!」「いいね!」のポジティブワードで培う信頼感

それと、タケちゃんはもうひとつ提案を。それは、「ネガティブワード」を使わないこと。とくに、人がしゃべったことについては、「でも」「いや」と言わない。代わりに、「いいね!」「いいよ!」。たしかに、タケちゃんは最後まで話を聞いて、賛同してくれる。これによって、私はどんなつまらないことも、臆せず話せるようになった。そして、「でも」というネガティブワードで自分を防御することをやめた。すると、会話がつづき気持ちが楽になった。「あ、これも話そう」「このこと、あとでタケちゃんに教えよう」と、日々の会話を心待ちにできるようになった。

責めない、否定しない会話が、発言する人を守ってくれる。そんなルールが、我が家に根付いた。それがきっかけか。私はタケちゃんを信頼し、なんでも話せるようになった。

やがて、相談もできるようになった。

気づいたら、自己肯定感と信頼感が少しずつ根付いてきたみたい。いつしか「相談」することが、億劫ではならなくなっていった。

 

 

 

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