奇蹟その二
すでに前述したが、東中延一丁目の、四号館建設の時、その土地がどうしても欲しいと思った。その借地権所有者の中島さんは、二転三転、価格をつりあげ、代替の家を捜してくれれば、売ってもよいとむつかしい条件を出して来られた。
父さんは、その言われる条件をすべてのみ、代替の土地捜しまではじめて、横浜・川崎・埼玉・千葉と毎日建物を見てまわった。そのとき、千葉のある建売住宅の現場で、中島親子とバッタリ出会った。中島親子もまた独自に家を捜し歩いていたのである。関東一円数万とある建売住宅会社のその中で、バッタリと、申し合せたように出会うとは、「太平洋の中ですいかがぶつかりあうようなものである」父さんはこの時も奇蹟を感じた。奇蹟はたしかにある。しかし、奇蹟は努力している者のみにしかあらわれない、と。
それまで無理難題をふっかけていた、中島さんが、その場で、「広升さん、お宅に売ります、今決めました。あなたの熱意と、そして私達の家まで、真剣に捜して下さる好意に感じました」
と中島さんとの契約は無事終り、引っ越しまでお手伝いをした。
それから四ヶ月後、勇者の園の建設が始まった。
喜生がやっとたっちができるようになっていた。父さんはきみを連れては、新しくできあがる四号館に行った。
それが日曜日の行事だった。
完成祝賀会に、中島さんも酒二升を持ってお祝いにかけつけて下さった。
この世の中で成功するのは、誠意と努力しかない、そんな気がする。
この世の中に、奇蹟はたしかにある。しかし、その奇蹟は、一生懸命努力している人の上にしか輝やかない。
先にもチヨットふれたが、父さんは、二十六歳の時、会社を退社し、政治家になりたい、と思って中曾根康弘、大物政治家の所に日参したが、「政治には、カバン・カンバン・ジバンがなければなれない」ということもよく耳にしていた。そのどれ一つとして自分にはないので、できない・なれないという理性による、いいきかせも働いた。
そして現実の勇者の園建設の募金運動などしていると、その方のことで手いっぱいで、政治家になりたい、などという気持もうすらいでいた。「青老ホーム勇者の園、一本でゆくんだ、政治になど出ない」そう口にしたこともある。それは自分自身に言いきかせるセリフでもあったと思う。
しかし、司会とか、講演会とか、人前で喋ることは本来好きな父さんは、完全にその灯を消すことは出来なかったように思う。
知り合いの区議会議員の人たちの選挙応援などがあると、うきうき、はずんで応援弁士を引き受けていた。
そして今年の四月、やはり区議会選挙があった。
父さんの好きな、立派なお人柄の宮崎節生先生(産婦人科医経営)の応援に行っているとき、その選挙の応援に来ていたある御婦人が、「広升さんも出るんじゃないのいつか。出なさいよ、あなた演説がうまいし」と冗談のように笑いながら言われた。
「カバン・カンバン・ジバンがないから、やめなければ……」と理性でおさえつけていた胸の中のそヤモヤに火がついた。
「やっぱりやりたい、好きなことなのだからやってみたい。理性に言いきかせて、一生を終るのも人生かもしれないが、本音をむき出しに出しきって生きるのも人生、正直に出しきって生きてみよう。やっぱり政治家になりたい」
その夜、早速母ちゃんに「オレ政治家になりたいんだよ、やらせてくれよ」とたのんでみた。
「また、熱病が出たの、あなたのは、すぐ思いつきで走り出し、熱がさめるんだから……。棚だってそうでしょうよ、壁をこわしたまま直しもしないで選挙に飛びまわってばっかりで……」とご機嫌ななめだった。
「やらせてくれよ。男のたのみ、亭主の人生じゃないか。キミが公認してくれなければできないじゃないか……」朝の食器洗いを手伝ったり、洗濯物をたたむのを手伝ったり、いろいろ気をつかいながら、毎朝、毎夜、「たのむよ、男にしてくれよ。やらせてくれよ」とおがみたおしたのだ。
その実、母ちゃんも根は政治活動は好きなのだ。数日たって、
「私は半公認(半分公認して、あと半分は公認しないの意)ですからね」というところまでこぎつけた。
職員の川村洋史・高岸喜久男おじさん達はすんなり、協力をしてくれることになった。
十五人のおばあちゃん達(入園者老人)も、心よく承諾してくれ、
「男だもん、好きなことを一生懸命やるのがいいんだよ。それが男の生きる道だよね」とカッコイイセリフではげましてくれる人もいた。
昭和五十四年四月のことだ。
もちろんそのことは、応援している宮崎先生にもすぐに相談したし、自分の心境は知り合いの人には、あうことごとに話すようにした。
また、政治家になりたい、という文章の印刷もし、その印刷物を人に渡したら選挙違反にならないかどうか、荏原警察に持参して審査もしてもらった。
選挙も、区議・都議、国の衆議院・参議院といろいろあるが、具体的にどれに出るか決めている訳ではないのだが、新人物往来社(歴史物出版社)の編集長の吉成勇さんが、
「どうせやるなら参議院にしなよ。広升君はどうせ何もないところから、今を築いたんだから、落ちてもともと、笑われたって平気じゃないよ。参議院で落ちたっていいじゃないの」と妙なはげましをしてくれた。
その時、父さんは思った。
そうだ、六畳一間のアパート生活の時に、九億八千五百万の勇者の園を建てる、と大ボラを吹いていたんだから、今参議院全国区といったって別におかしくもないんだ。よし、今一度、大きなゆめを見ながら走ることにしよう。
それからは「参議院全国区に出ますから」と大きな声で言っている。
みんな笑いながらきいてくれている。
たとえ区議・都議に出るにしても、最初は大きなことを口にして印象を与えておいた方が名前を憶えてくれるかも知れない。
そのためにオフセット印刷機も購入した。二百万円だった。また今秋の十月、区内の富田さんという人から和文タイプライターを寄付してもらった。
父さんは、文書活動を通じて有権者にアピールをしてゆこうと思っている矢先だったので、そのタイプライターをいただき、徹夜をして、そのタイプの打ち方をマスターした。
自分で調べ、自分で原稿を書き、自分でタイプし、自分で印刷し、その出来上ったものを毎朝父さん一人で自転車で配布している。
「参議院、全国区候補が自転車でまわっているのも大変だな……」と冗談を言うのだが、久し振りに大きなゆめができた。
父さんは、何だか気分も身体もスッキリした感じでいる。
「喜生と健生がもうすこし大きくなったら、ビラ配布の手伝いぐらいしてくれるのにな——。
オヤジのために子どももワッショイ……で走りまわるのもいいだろう……」などと、すでに息子のきみたちをあてにしている、運動資金のない、政治家志望の父さんである。