日本語に敬語あるのはなぜか?! #01 日本語ラボ
「日本語ラボ」シリーズは、日本語教師の卵であるアコが、日々の学習した内容を振り返りながら、まとめています。日本語の学習者にも、読み物としてもお読みいただけるシリーズとして育てていきます。
# 01 語彙_敬語
私は、ナニモノか?!
「ママって、何?」
「ママは、人間だよ。ホモ・サピエンス。こうちゃんは?」
「こうちゃんは、蝶々だよ」
「へぇー。イケてるね」
(腕を広げてパタパタと蝶々の真似をする息子)
私たち親子が日常繰り広げる、どうでもいい会話です。
が、とってもとっても、大切な時間です。
普段は取り立てて気にしていないことに
ハッと気づける時間です。
私は、ナニモノか……。
えぇと、私は
人間です。
日本人です。
宮城県で生まれました。
今年で40歳です。
息子から見たら「母」であり、
親から見たら「娘」であり、
夫から見たら「妻」であり、
隣の人から見たら「お隣さん」、
仕事先の人から見たら「仕事をする人」、
日本語教師養成学校の先生から見たら「生徒」、
外国人の学習者から見たら「先生」
こうした「役」を瞬時に使い分けて、
言葉を入れ替えているんですね。
で、今回は、敬語のハナシ。
日本人であれば、小学校や中学校で「敬語」を勉強してきて、いまは何も考えずにさらっと使い分けていると思います。が、いま、知識として残っているのは、相手を持ち上げて使う「尊敬語」か、自分を下げて相手をあげる「謙譲語」か。それくらいの使い分けで、改めて考えると、実に難しい……。
いま、外国語を母語とする方にも日本語を教えていますが、一方的なヒアリングはできていても、2人以上の対話になると聞き分けられないといいます。英語や中国語には、日本語のような敬語がなく、「敬語」を必要とする「人との関係性」を言葉で表現するという文化が珍しいのかもしれません。
日本語の敬語クイズに挑戦!
さて、日本人でも苦手な敬語。
改めて整理してみましょう!
ということで……。
まずは、○×クイズです。
1.私は日記をお書きします。
これは、「×」。
勝手に書けやって話です。
つまり、相手が存在しないこと。
2−1.カバンをお持ちします
これは、「○」ですね。
持ってあげる相手、聞いている相手がいます。
つまり、1と2−1では、
「ありがとう」を言ってくれる相手がいるかどうかが
尊敬語や謙譲語を使うシーンかどうかということを
指しています。
2−2.先生が私をご指導してくださいました
これは、
「×」ですね。
正解は、先生が私をご指導くださいました。
ご(お)+動詞(〜ます)+する(します)
は、謙譲語。つまり、「先生」を低めて私を高めてしまう。
尊敬語は、
ご(お)+動詞(〜ます)+になる(になります)
です。
この文例であれば、
○先生が私をご指導くださいました。
○先生が私を指導してくださいました。
になります。
3.赤ちゃんがご病気ですので、会社を休みます。
家族(身内)には、敬語を使わないため「×」。
「子供が病気のため」で十分です。
4.(ホテルに電話をして)5時ころお着きします。
これは、「×」。
ホテルのスタッフに向けられた言葉ですが、
電話口のスタッフをあげて使う必要はない。
むしろ、このスタッフは、
尊敬の対象ではなく、「聞き手」ということ。
なので、丁寧にいうなら、
5時ころ到着いたします。
通常では、5時ころ到着します。
で、オッケーということです。
日本語の会話は、4つの対人パターンに分けられる
つまり、発話(おしゃべりを伴う行動)には、4種類のパターンがあるということ。
1.ひとりごと
(勝手にやります)
これは、敬語を使わない。
2.相手が目上
相手を高める尊敬語
自分を低めて相手を高める謙譲語
3.相手が目下
尊敬語・謙譲語は使わない
4.聞き手がいる
一部の謙譲語(おる・参る・申す・いたす)
丁寧語(です・ます・ございます)
これを「菓子を食べる」というシーンに当てはめると。
1.ひとりごと
菓子を食べる
2.相手が目上
(相手が)お菓子を召し上がる
(私が)お菓子をいただく
3.相手が目下
お菓子を食べる
4.聞き手がいる
お菓子を食べます
なお、「お菓子」の「お」は美化語といって、物やコトにつけて丁寧に表す言葉です。ちなみに、「お冷や」とか「おしろい」のように、「お」をとって意味が変わる言葉は、美化語ではありません。
対人関係にデリケートな日本人が生んだ敬語
……というように、日本語が難しいと言われるゆえんは、日本人が相手との関係にデリケートで、人によって「私」のあり方がコロコロと変わるからなのだそうです。人との関係を意識している国民性は、遡ること江戸時代とか鎖国時代に起源があるそうですが、この話はおいおいと。
で、私は、ナニモノか。
一番ありたい姿を忘れちゃいけないですね。
人にその立場を強いられたから、私が形成されていくのではなく、私の頭と心が決めていく。
そう思って、日々を過ごしたいものです。